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***第二ロンドン信仰告白の学び***

① はじめに
 先回の学びでは、教会には天にある唯一の教会、すなわち普遍教会と、地上にある地域(各個)教会があることを学んだ。しかし、新約聖書が教会について語るとき、ほとんどは地域教会について述べている。私たちは地上の教会に属しながら、ともに天の教会を目指すからだ。地上に生きている信者にとっては地上の教会がキリストの体の活動の場である。そういうことで、地域教会に焦点を合わせて学び始める。今回は、教会は誰によって構成されるかということを確認する。信仰告白の範囲としては26:4-6くらいの内容を取り扱う。

② かしらはキリスト(15)
 教会をつくられたのは主イエスご自身である(マタイ16:18)。私たちのような小さな集いでも主がお建てになっていることを覚えて感謝しようではないか。教会は人が作った制度ではないのだ。私たちの計画や力によるものでもない。教会は主のものである。ゆえに、何人たりとも教会を軽んじてはならない。主イエスは天においても地においても一切の権威を持っておられるが、その権威をもって、あらゆる国の人々を弟子とし、御名のバプテスマを授けるようにと、そして、それを世の終わりまでするようにと、弟子たちに命じられた(同28:18-20)。これがキリストの教会である。そして、その展開の一つが本日の聖書箇所である。読んでの通り、教会とは、主イエスのご命令に従い、御心を行う弟子たちの有機的組織なのだ。そして、そのかしら(主権者)がキリストである。人間は決して教会の主権者とはなりえない。ローマ・カトリック教会の教皇、異端やカルト化した教会の指導者は絶対的権威を教会に持つが、誤りである。中には、力のある持つ信徒が教会のかしらとなるケースもあるだろうし、教会全体がキリストを無視することもあり得る。このように、人間が教会のかしらになった場合、最悪の事態に陥る。なぜなら人間がかしらになるという主への侮辱に加え、彼らの非聖書的教えや行いに、教会が従わなければならなくなる。それは主の教会ではない。私の体には私の頭があって、体全体に様々な指令を送り続けている。もし、頭がすげ代わると私は私ではなくなってしまう。それで、教会は常に「あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって」いるかどうかを確認し、大牧者であるイエスの御声に従わなければならない。誰が教会を愛して贖いをされたのか?誰がよみがえりのいのちを与えられるのか?誰が主権者なのか?『それは主イエス・キリストである』と明白に告白し、実際このお方に従うのがキリストの教会である。

③ からだは信徒(12)
 かしらがキリストであるなら、からだは何によってできているのだろう。「聖徒たち」である。すなわち神によって救いに召された者たち(4)、おひとりの主だけに仕える者たち、同じ御霊を頂き、同じ救いの信仰を頂き、同じバプテスマを受けた者たちである(4-5)。使徒の働きを見てみよう(2:40-42)。ペテロの説教を聞いて罪を悔い改めイエスを信じた者が、バプテスマを受けた。そして、その者たちは「仲間に加えられた」のである。つまり、キリストの教会は救われた者だけ、信者だけで構成されるということである。赤ちゃんに洗礼を施して教会の一員とするとか、信仰がはっきりしないのにバプテスマを授けて教会員にしてしまうとか、そういったことを新約聖書は教えていないどころか、全く聖書に反している。「神の御子に対する信仰と知識」(13)がないのに、どうしてキリストのからだ、「教会」となるだろうか(1:23)。

④ メンバーシップ制
 告白6節に「これらの教会の会員は召しによる聖徒であり」と書いてある通り、バプテスト教会はメンバーシップ制をとっている。まず、信者は天の教会において名が記され(ピリピ4:3等)、登録されている(ヘブル12:23)。であるなら、地上の教会でもそのようにして活動して何かおかしいだろうか?聖書には『教会員籍を持ちなさい』と書かれていないが、信徒たちが教会員として各個教会に所属していたという証拠は多々見られる。「加えられた」(使徒2:41)や、エルサレム教会に何人いたか(同1:15と2:41)、どの教会に誰がいたか(ローマ16等)、やもめの名簿の存在(1テモテ5:9)、除名(テトス3:10)などがある。今朝の聖書箇所には御霊の賜物がそれぞれに与えられており、それぞれに役割があることがわかるが、それは所属という形において本領を発揮する(16)。このように地上においてキリストの体に属していることを明確にすることは、キリストの愛と証しの実践である。

第26章教会についての第2回目です今日 は教会の構成についてお話ししたいと思い ます早速学びを始めましょう 旋回の第2ロンドン振興工学教会について の第1回目は教会には2種類あるよという ことをお話しさせていただきました一つは 天にある 唯一の教会のことです天にある唯一の教会 これを 普遍協会という風に呼んでおりますそして もう一つの教会の形は何かというと 地上にある地域協会 各個協会と呼んだりもしますけれども地域 協会の ことですこの2種類があるというお話を いたしました しかし私たちが新約聖書を 読む時に教会について書かれているところ を実は新約聖書っていうのはほとんど教会 のことばっかり書いてます皆さんお気づき になってるかどうかっていうのはともかく なんですけれどもだってパウロ書簡でだっ てそうでしょどこそこにある教会へって 教会に向けて書いてるわけですよねペテロ もそうですよねどこどこの地域にある諸 教会へという風に 常に教会なんですね で新約 聖書を読むときもう教会について書いて あるんですよでその教会について書かれ てるわけですけれどもそれは 普遍協会のことよりも 覚悟教会地域にあるその地域にある教会に ついて書かれていることの方が 圧倒的に多いです まあ今日はエペ訴訟の4章から 拝読いたしましたけどもまあ4章の4節体 は一つというこの言葉は 普遍協会を意味しているかもしれませんね 体は一つというのはでも明らかに4章の7 節からは確保教会について 話をしていますね 覚悟教会において一つの体をつまり キリストの体を 立て上げるのだという話をこの4勝でして いるわけですですから4章の4節体は一つ ということでここの体は一つは右辺教会を 意味していたにしてもその後は確保教会で キリストの体を一つの体を 立て上げていきなさいという話になって いるわけであります 考えてみたらそれは当然のことなんですね 私たちが教会で 活動をすると主に従って教会の歩みをして いくという時は

まだ天国に行ってませんから地上にいる わけですから地上の教会の話にどうせでも なっていくわけですね 地上に生きているクリスチャンにとっては 天国に行った人はもういいんですけど 天がその活動の場所です主を褒め称える 趣味使える場所ですけれどもこの地上で 生きている私たちにとっては地上の教会が キリストの体の 活動の場であります そういうことで今日の学び合わせてあと4 回残ってるんですけれども地域 協会確保協会に焦点を合わせてお話をして いきたいというふうに思うわけですね そして今回は教会は誰によって形作られる のか構成されるのかということを確認し たいと思うのであります 学びますところの第2ロンドン振興告白 26章教会についての中では456 節あたりの内容を今日は取り扱おうとして おります さあ第1番目です 教会はキリストの体であるという風に言わ れております今日の 章子でもペースの1章23節をお読み いたしましたがペース訴訟の1章23節で は教会はキリストの体でありすべてのもの をすべてのもので満たす方が満ちておら れるところですというふうに書いてあり ました教会はキリストの体なんだですね はい じゃあこの体っていうのは一体何によって できているのかっていうことなんですよね 頭もあったり腕もあったり 胴体もあったり 短くたって足もついてたりだとかでまあ いろいろ書く部分があるわけなんですよで それは一体何なのかということです そうしますと私たちが真っ先に覚えなけれ ばならないことは頭の部分なんです 教会の頭が一体誰ですか教会の頭ですね 主権者は一体誰ですかっていうことです そうしますと今日4章の15節にこう書い てありました むしろ愛を持って真理を語りあらゆる点に おいて 頭であるキリストに向かって 成長するのです 頭はキリストですということなんですこれ がすごく大切なポイントなんですねこれを よく私たちは理解する必要があります そもそも教会を作られたのは誰ですか イエスキリスト様ですね私はこの 岩の上に私の教会を立てますと言われまし た世の中にはいろんな集まりがありますよ

ねいろんな集会がありますでもイエス様が 作られたのはイエス様の教会なんです イエス様の集いなんです イエス様がそれをお作りになったのであり ます 私はこれは本当に 素晴らしいその 励ましや慰めの御言葉になると思ってます 私たちの教会は見ての通りまああんまり 大きくはありませんあんまり大きくはない というか小さい教会であります 富山県の 富山県というか日本全国の教会から言うと ですね 本当に 平均よりちょっとしたぐらいのね 規模なのかなーなんていうふうに思います けれども小さい教会ですでも小さいからっ て言ってバカにしちゃいけませんよ 軽んじてはいけませんよなぜならばイエス 様がお立てになった教会だからです これは皆さんの知恵や努力や計画によって できた教会ですか 違いますでしょう私が働きかけてできた 教会ですか違いますよね イエス様がお立てになった教会なんですよ だから大切なんです この小さな集いでもイエス様はお立てに なってくださっているということを 覚える時に私たちは神様ありがとうござい ますという気持ちになるわけです決して 人間の知恵制度によってできたものでは ないのです だから ナンピドたりとも教会を 軽んじるということがあってはありません あってはいけないことなんですね あんな小さな教会と世の人々は言うかも しれませんでもどんな人でも教会をけなす ことは集会をけなすことはキリストの集い を貶すことはできませんなぜならキリスト がお立てになってキリストが集めに私たち を呼び集めてくださってキリストがご自分 の体として栄光を現そうとしておられる からです 世の中の人々は この世の中の様々な制度 のことを大切にいたしますしかし私たち キリスト信者は何よりもキリストが立て られたお作りになったこの制度教会という ものを大切にしなければなりません残念 ながらクリスチャンの中ででも キリストの権威によって作られた教会より も 立て上げられるこの制度教会よりも

この世の様々な制度の方にお熱になって 教会の体を 立て上げる教会の体を作り上げる教会を 立て上げるということは二の次三の次と いう風な考え方でいる方がいますでもそれ は キリストを軽んじることですそういうこと があってはならないんです あなたの贖い主を 軽んじるそのようなことがあってはなら ないと私は思うのです教会のかしらは キリストであり教会はキリストがお作りに なっているものだということを 忘れてはならないんです 忘れてしまってるからこの世の中の方に お熱になって教会は二の次三の次4の次に なっちゃう でもそうではありません私たちも主は誰 ですか私たちの救い主は誰ですか誰がその 命まで捨てて誰が血を流してまで 私たちをなってくださったのでしょうか イエスキリストです 罪のない神の子羊イエスキリストが私たち の 贖いとなってくださったのでその 尊い血潮によって教会は成り立っていると いうことを決して私たちは忘れてはなら ないというふうに思うのであります マタイによる福音書の28章をちょっと 読んでみたいと思うんですけれども大宣教 命令と呼ばれているところですねマタイに よる福音書の28章の18節から20節を お読みいたしますイエスは近づいてきて彼 らにこう言われた 私には天においても地においてもすべての 権威が与えられていますですからあなた方 は行ってあらゆる国の人々を弟子とし なさい 父子 聖霊の名において彼らにバプテスマを授け 私があなた方に命じておいたすべてのこと を 守るように教えなさい見よ私は世の終わり までいつもあなた方と共にいますこの イエス様の 命令 天においても地においても一切の権威を 持っておられるイエスキリスト様がその 権威を持って教会を作りなさいと おっしゃってるんです 弟子をあらゆる国の人々を弟子とし皆の バプテスマを三位一体の皆のバプテスマを 授けるように言ってますこれ教会以外に何 がありますか イエスキリスト様はご自分の権威において

教会形成をしなさいと言っているわけです そして今日までそれが人たちから今日まで 続いているわけです見よ私は世の終わり までいつもあなた方と共にいる私たちを共 にいて教会形成をし続けるということが 言われているわけですこれがキリストの 教会だということですそしてその 展開の一つが今日の 聖書箇所をお読みした聖書箇所AP総書の 4章になるわけであります 弟子となり バプテスマを 授け 命じておいたすべてのことを 守るということの 展開例がこの先ほど読んだAPS訴訟の4 章になるわけです 4での通り教会とは主イエス様のご命令に 従って 御心を行う 弟子たちの有機的 組織だということです 私たちはイエス様のご命令に従う者たちな んです イエス様の御心をこの地上で行うための 集まりなのです そしてそのかしら主権者がイエスキリスト なのだということなんです なぜこのことが大切かというと人間が教会 のかしらになりたがっ た例えばローマカトリック教会の 法王強行ですね彼は実質 ローマカトリック教会というものの 頭になってるわけです ですから ローマカトリック教会の法王が教皇が ローマ法王の座から語ることは神の言葉で あってそれには絶対従わなければならない ということになるわけ ですイエス様ではなくて教皇が頭になって あるいは 異端やカルト化した教会の指導者たちも 自分が教会のかしらだとしているわけで ありますそして 中には力のある力を持っている信徒が教会 の貸し合いになるというケースもある でしょうし あるいは教会全体がもうキリストを無視 する キリストを無視した教会形成 集ってはいるんです集ってはいるけれども キリストを柱としない 集まり集いっていうものはあり得るという ことです つまり単なるサークル

活動になってしまっている キリストの教会とは呼べない教会集まり 集いというものがあり得るわけであります こんな風に人間が教会の頭になった場合 最悪の事態になっていきますなぜなら人間 が貸しなり頭になるということはこれは主 イエスキリストに対する 侮辱に他なりません 頭はキリストであるのにその頭を 引きずり降ろして私がなると言ってるわけ ですから私たちの主に対する大きな 侮辱であります 十字架に 泥を塗る行為であります そしてそれに加えてその教会キリストを頭 としない教会は 非聖書的な教えまた行いをする時に 境界全体がその頭の言うことに 聞き従わなくてはならなくなってしまい ますどれほどそれが非聖書的であっても どれほどそれが神様の御心にそぐわなくて もそれがイエスキリスト様が命じている ことでなくてもそれに 従わなくてはならないという恐ろしい事態 になるんです 私たちは頭は主権者は一体誰なのかという ことをはっきりと覚えておかなくてはなり ませんそうでなければ主の教会では なくなってしまうんです 考えてみてください 私のこの体には私の頭が乗っかってます そしてこの 頭脳からですね 常に私の体全体にいろんな指令が送られて いるんですもうあの数えきれないほどの 様々な指令が今何をしゃべるべきだとか この身振り手振りだとか全部 脳から指令がいって話をしているわけなん です動いているわけなんですねでこれが この頭これはアンパンマンは別としますよ アンパンマンは頭がダメになってね僕の顔 を食べていて頭が食べられちゃってですね で新しい頭だよって頭新しい頭に すげ替わってもアンパンマンはアンパン マンでいられるんですすごいことだと思う んですけれどもまあそれは 漫画の話アニメの世界でありますけれども でも実際人間の場合そんなことがあり得る でしょうか頭がすえ変わったらどうなり ますかもし私の頭が他の人の頭に すげ替わったらそれはもう私ではないん です そうでしょ 首下半分は 元の私の体かもしれませんけども頭がすげ

変わったらもう私ではなくなるん です教会の頭がすげ替わったら教会では なくなるんですだからキリストを頭とする ということがどれほど当たり前のことで あり大切であるかということを 覚えておかなくてはならないんです ですから教会は 常に あらゆる点において頭であるキリストに 向かっているかどうかを確認する必要が あります今日のエペソの4章の 15節ですね むしろ愛を持って真理を語りあらゆる点に おいて 柱であるキリストに向かって 成長するのですこの16次の16節に体 全体は あらゆる節を支えとして組み合わされ つなぎ合わされると書いてありますこれは キリストによってと書かれてますけれども キリストによってつなぎ合わせられてるか どうかなんですね 通常の人間の肉体っていうのはつながって いるものなんですが 困ったことに人間っていうのはその キリストに逆らって キリストから 離れてしまうことが可能なわけですよ でもそうではなくて キリストにあなたがつながることという ことキリストに向かっているかどうかと いうことが確認されなければならないと いうこと です一切のことがキリストに向かっている だろうかそうでないとキリストの体として 成長しませんよという風に言われている わけですこれは要するに私たちの 信仰による 応答 信仰による 働きをしているかどうかということなので あります私たちの信仰はキリストがお与え になりキリストがお支えくださるわけです けれども私たちもまた 信仰によってキリストに向かっているか どうかしっかりとつながってるかどうかと いうことを確認しなければならないので あります大牧者なるイエスキリスト様の御 声は何なんだろうか 人間の声ではないイエス様は聖書は何と 言っているんだろうかというところを 常に私たちは聞かなくてはならないのです それに 従っていくのが教会だということなんです ね

次のポイントに行きますさあ頭はキリスト だということが分かりましたではその頭の 下の部分は一体何だろうかと言うと 体というか死体といえばいいですかね 生徒であるという 信者であるということです12節を見て ください エペソの4章の12節ですねそれは 生徒たちを整えて 奉仕の働きをさせキリストの体を 立て上げるためです イエスキリストを信じた人々 生徒たちがキリストの体を構成するものだ と言われているんです お一人の主だけに使えるものたち同じ御霊 をいただいた者たち同じ 救いの信仰をいただいた者たち同じ バプテスマを受けた者たちによって キリストの体の部分死体の部分が作られる 構成されるのだということなんですね ちょっと使徒の働きを開いてみましょうか 使徒の働きの2章であります 40節から42節本当はもっと多く読み たいんです前後読みたいんですけれども 時間の関係で 人の働きの2章の40から42節ですまあ もうペペ訴訟に関してもこの今開いた開い ていただく人の働き2章のところでももう 何度もうちの教会では話していることです からもうおさらいがてらの思い出ですね 聞いていただければと思うんですがお読み いたします40節から ペテロは他にも多くの言葉を持って証しを しこの曲がった時代から救われなさいと 言って彼らに勧めた彼の言葉を受け入れた 人々はバプテスマを受けたその日3000 人ほどが 仲間に加えられた彼らはいつも人たちの 教えを守り交わりを持ちパンを裂き祈りを していたまさしくイエス様が大宣教命令で 言われた通りのことをしてここに エルサレム教会ができてるわけですよね はい 体は 信者たちだということなのであります その者たちが 仲間に加えられたと書いてあるのです つまり何が言いたいかというと皆さん 当たり前の話だと思って聞かれると思うん ですがキリストの教会は 救われたものだけ 信者だけで構成されるということです 何でそんな当たり前のことを言うんです かっていうと ミシンじゃが教会

員になる教会を構成するものになるという ケースがたくさん実はあるからなんです バプテスト教会はそんなことはないんです 聖書が言う通りイエス様を信じた者によっ て生徒たちによって教会を形成するです しかし 他の教会教派ではそういうことがあるのだ ということなんです 未信者は教会の一員ではありません もちろん教会の中には求道者の方も たくさんおいでにうちの教会は あんまりいらっしゃらないんですけれども でもまあおいでになります 除け者だとかそういう話をしてるんじゃ ないですキリストの体ということで教会を 立ち上げるという意味においては クリスチャンだけ 信者だけなのだということです ミシンジャが教会 員にはなれない教会を形成することはでき ないと例えばこれはエペソ 証書の今読んだところ今日 読んだところにも関わるんですけれども 奉仕っていうものが出てくるでしょ 御霊がそれぞれに 救われたものそれぞれに賜物をお与え くださってるわけですねそしてその 賜物を 互いに用いながら 互いに使い勝手結び合ってキリストの教会 ができるわけでしょこれわかりますよねで もそこにミシンジャーが入るとどうなるか ということです ミシンジャーが 正しい意味で方針できるかっていうとでき ないでしょ ミシンジャが キリストの 賜物を受けてるかって言ったら受けてい ないでしょ 生徒たちによって教会は作られるんですだ から ミシンジャーの方に 礼拝の奉仕をさせることはできないです させてはいけないんです なぜなら 未信者は教会の一部ではないからです でも キリスト教が広く見回した時にそういう例 がたくさん見られますよっていうことなん ですそれは 聖書に 全く 反したやり方 だと言わざるを得ないわけです

今日のエペ訴訟の 13節4章13節で私たちは皆神の御子に 対する 信仰と知識において一つとなりと書いて ありますけれども 皆神の御子に対する信仰と知識を 持ってるわけですよね だから神の御子に対する 信仰と知識を持っていない人たちは一つに なれないでしょ つまり教会を形成できないということです だから私たちは覚えなくてはならないのは 教会形成というのは 未信者をクリスチャンにするということは ないということです ミシンジャーを無理やりクリスチャンにし てしまうと教会員にしてしまうということ はないのだということ 覚えていただきたいと思いますねこれは 意外に大切なことなのであります 最後 メンバーシップという点についてお話しし たいと思いますね 第2ロンドン振興工学第26章教会につい ての第6節にはですねこれらの教会の会員 は 飯による生徒でありと書いてあります 生徒たちが教会を形成するわけですがそれ は 会員という風に書いてあります メンバーシップという風に書いてあるわけ ですね その通りバプテスト教会はメンバーシップ 制というものをとってます なぜでしょうかまず 真の信者は 天の教会において メンバーシップです名前が記されています 命の書に名が記されているわけです 私は天の教会員です 我らの国籍手にありとクリスチャンたちは 言います皆さんは天の教会のメンバーなん そして 旋回ヘブル書の12章23節 から学んだと思うんですけれども天に登録 されている教師たちの教会とありますよね 天に登録されている調子たちなんです 真の信者は天に登録されてるんです天の メンバーなんですね神様がお認めになった 真の信者であるということですであるなら ば地上の教会でもそのようにして活動する ということが何か変でしょうか 確かに聖書には教会 議席を 持ちなさい

信じたら教会員席を持ちなさいという書か れ方は一つも見られませんしかし 信者たちが教会 員として 各国教会に所属していたという 証拠はたくさん見られます例えば先ほど 読みました使徒の働きの2章の41節では 加えられたと書いてあります バプテスマを受けた人たちは 弟子として加えられたエルサレム教会に 加入したということです ですからエルサレム教会には何人いたかと いうことも分かっています その日3000人のものが 誰でもいいやというわけじゃないです ちゃんと誰がバプテスマを受けたかという ことが分かっていなければ3000人 なんていう言葉が出てきませんもう少し前 の方に行きますとおよそ120人の人が 一緒に集まって祈っていたとあります 誰がクリスチャンであるかということが わかっていなければ誰がその教会の メンバーであるかということが分かってい なければこういった人数というものは出て こないはずですね またどの教会に誰がいたかということも 聖書は言っています例えばこれはローマ書 の16章なんかでよく特に見られることだ と思いますが ローマのそちらの教会の誰々によろしく なんていうような言い方をするわけですよ ね私たちも手紙を書くときね教会に向けて 書くとき教会の誰々さんによろしくなんて いう風な書き方をしてますその教会に誰が 所属しているかというのが明白であるから そのような書き方ができるわけです あるいはテモテショーを見てみますと第1 テモテの5章9節を見ますとやもめの名簿 があったことがわかりますこれは語れ語と いう言葉なんですがリストに載せるという 意味です つまり教会 員がその教会員の中でやもめになった人は やもめの支援を受けたい人はそのさらに やもめの名簿に登録されたわけです つまりこのことは明らかに教会は メンバーシップ制というものをとっていた という証拠なんですねあるいは これはパライトという言葉になるんですが テトス書の3章10節では除名という風に なりますまあ正確には拒絶するという意味 になるんですけれども役においては 除名という言葉でいいでしょうねですから 教会はですから会議を行うためにも誰が メンバーであり誰がメンバーでないかと

いうことが非常に大切になってくるわけ です教会運営上これは大切なことですです から バプテスト教会はメンバーシップ制という ものを聖書に従って取っているわけなん ですね で今朝の 聖書箇所においては 御霊の賜物がそれぞれに 与えられているということがわかります そして 御霊の賜物がそれぞれに与えられていると いうことはそれぞれに役割が 与えられているということです それぞれに役割が与えられて るっていうのは どこかに所属することにおいて本領発揮 するんですよね 例えば私はバスケットができるんですで 最近なんかバスケットが流行ってるらしい んですけれどもスラムダンクっていう アニメが映画が映画になったのかなよく 知らないんですけども大ヒットしてるそう ですね僕がバスケットができるんですよ 自分でこう シュートとかやってでも フリでそれやってても 意味なくないですか まあそれその人の 訓練にはなるですでしょうけども チームに入らないといくらバスケットが できますってやって無意味じゃないですか チームに所属することによってその人の そのバスケットの能力というものは チームワークを通して発揮されるわけです よね個人プレーというよりもみんなで一緒 にすることによって発揮されるわけです 初めて生きたものになるんですね 私たちクリスチャンは 御霊を 御霊の賜物をいただいてるんですから教会 に所属することによって互いに使い合う ことにより本来のキリストの姿というもの を表すことができるんですだからメンバー シップっていうものが大切なんだよって いうことを言いたいわけなんですね そのようにしてキリストの体に属すること を明確にすることはキリストの御心に かなうことでありキリストの愛を証しする ことキリストを 証しすることの実践だということを 覚えていただきたいと思うのであります 今日は教会の構成というものについて考え てみましたお祈りいたします

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