あなただけを(あおい輝彦)
Harmonica/Yanatake Sadao.
Age:76/耳コピ
この曲は1度だけテレビで、「あおい」さんが歌っているのを、聞いたことがあったのですが、案外歌がうまいんだなあ・・・と言う印象だったのですが、曲名も忘れていたのですが、アマゾンから買った「しょうもない歌本」と思っていた中に、この曲があったので、YouTubeで聞いてみたという訳です。割と軽快なリズムの曲であり、「あおい」さんの方が、よっぽど上手に歌っていて、私の演奏は、ちょっとヒド過ぎですよね。最近は、NHKの大河ドラマでは、時代劇が滅んでないようだが、「水戸黄門」など、民放では時代劇は、最近、あまりやっていないのじゃないかな。最近インターネット依存症なので、テレビのニュースも見ないので、ドラマなど全く見なくなったので、よく分からないがBS放送なんかで、古い昔の時代劇を再放送してたりするようです。「あおい輝彦」さんが、助さんか、格さん役をしてたように記憶しています。私の母は11年前に98歳で亡くなりましたが、母の2つ上の姉であった「おヒデ」おばさんが、私のうちに来た時、話していた記憶だと、「東野栄次郎」の水戸黄門が好きだったが、次の役の水戸黄門は好きではない・・・んだそうでした。次々配役が変わって「石坂浩二」も水戸黄門役を演じたようだった。「うっかり八兵衛」とか言う脇役がいたり、「由美かおる」はかなり、長期間、水戸黄門に出てたようでしたね。黄門さまが、諸国を旅して「悪代官」みたいな悪を懲らしめる・・・みたいなパターンだから、「ワンパターン」の代表みたいに言われた。助さん・格さんたちが悪党との格闘シーンが、或る程度続いたあと、「ええい、静まれ!この紋所が目に入らぬか!ここにオワスお方を、誰と心得れる。先の副将軍、水戸光圀公にて、あらせられるぞ。ズが高い!控えおろう」だったか忘れたけど、大体、この辺りはワンパターンと言われていた。水戸黄門漫遊記なるものは、講談なるものが、流行っていた江戸時代のストーリーで実際の水戸光圀は水戸藩の2代目の藩主で、徳川御三家のひとつだが、かなり変人で、「大日本史」なる数十巻の日本史を書きあげようとした人で、こんな歴史書を書き上げたかった目的なるものが、「日本神話から血を受け継いでいる天皇家が正当な日本の最高権力者=国主であるべきなのに、今では武士階級が将軍の地位にあって、公家や天皇家を養ってる状態は、正しくない。国主の権限は天皇家に返すべきだ」などという、徳川御三家の自分の地位が危うくなりかねない信念の持ち主だった藩主だったらしい。だから、漢学、蘭学の後に最後に生まれた「水戸学」なるものも、この水戸光圀の思想が背景に有ったから、国学、水戸学は、日本の右翼思想の源流にもなっていった。水戸光圀は、水戸藩以外の土地を旅行したりは、してないが、助左衛門、格之進は、「大日本史」の資料を集める役目を水戸光圀に依頼されていたと考えられるので、この二人は諸国を旅しただろう。水戸光圀は、私生活的には、少しハイカラさんだったようで、万年筆以前の西洋の「鳥の羽がついた、つけペン」なるもので、文章を綴っていたそうで、昔の人は、みんな書道の筆で字を書いて居たとおもってはいけない。例外的な人も江戸時代にいました。長崎の出島のオランダ人から蘭学を学んだ人たちも「アルファベット」の文字が書ける必要があったので、西洋風の「ペン」を使用していたらしい。「国学」なるものは、漢学、蘭学が他国の知識の吸収を目指していたのと反対に「自分の国の歴史」など、「自国を知ろう!」という立場に立っていた学問と言える。「富士谷なりあきら」の「あゆひ抄」などが、「国文法」の研究の先駆けとなったが、この人が「日本語にも文法なるものは、有る筈だから、日本語の文法はどのようなものだろうか」と国文法の研究に興味を持ったキッカケは、多分、偶然目にした「ポルトガルの文典=文法書」がキッカケであったようである。「あゆひ」=「テニオハ」=「助詞、助動詞」なのですが、なぜ「格助詞」などと言う「助詞」=英米の前置詞の逆の後置詞を「あゆひ」だの「てにおは」だのと昔は呼んでいたらしいが、現代人には、「あゆひ」「てにおは」なる言葉は死語であり、「助詞」の昔風な呼称であることすら知らない人が多い。水戸光圀からして、武士が将軍として最高権力者であることはオカシイ。権力の座を天皇家にお返しすべきだ・・・と言う思想を持って居た水戸藩が、「尊王討幕」を(幕末に)目指す思想面での原動力になったのは、不思議なことではなく、二代目藩主にして、「大日本史」編纂の変人藩主だったのだから、「水戸学」「水戸藩士」が尊王討幕思想を持っていたのは、当然で、安政の大獄で吉田松陰、橋本佐内が切腹させられたことに怒った水戸藩士による「井伊直弼の桜田門外でのテロ的暗殺事件」。「西南戦争で西郷隆盛が明治政府軍に敗れて自決したこと」に対しても「大久保利通暗殺事件」を起こしたのも、旧水戸藩士だったという。大久保は、切りつけられて大けがを負ったが即死ではないそうだが、大けがが元で敗血症で亡くなったと言われている。佐賀、熊本、鹿児島県の昔、武士だった人たちが「西南戦争」を起こしたのは、西郷が征韓論の議論に敗れて明治政府から野に下ったことに対する大久保への反発も少しはあるが、公務員に採用された武士だった人は、僅かであり、10年間だけ、国が月給のようなものを、旧武士階級に与えるが10年後からは、そんな待遇はなくなるので、早急に何か職業を見つけなさい・・・ということになったことへの、焦りと反発が出来たばかりの明治新政府をもう一度倒そう・・・と言う西郷隆盛を崇拝する元薩摩藩士の青年が西南戦争を明治9年に起こすキッカケとなった。明治政府も密偵に薩摩の動きをスパイさせていたので、武器弾薬類を沢山集めて蓄積している事実を察知していたので、西南戦争が起きることは予知していたようだ。両軍の放った鉄砲の弾同士が衝突して出来た「へこんだ弾薬」すら熊本城の石垣付近で見つかったことが、近年でもあるというのだから、両軍の放った銃弾の密度が非常に高い雨あられ状態だったことが、想像される。「あおい輝彦」さんのロマンチックな「あなただけを」の説明文には、およそ似ても似つかない説明文とナリニケルカモ。2023/05/20 1:08Am

Leave A Reply