「日本史サロン」では今回と次回の2回にわたって、大坂の陣に関する最新研究の成果を紹介する予定です。

初回の今回は「大坂の陣の真相 5選」をテーマに、近年出された新説を中心に紹介していきたいと思います。

あなたはいくつ真相を知っていますか?

※本動画は「どうする家康」のネタバレを一部含みます。

—————————————————————————————
0:00​ オープニング
1:06 方広寺鐘銘事件①
3:14 方広寺鐘銘事件②
5:26 徳川も豊臣も早い段階で講和を模索
9:25 堀の埋め立ての真相
12:22 豊臣家存続の可能性があった
15:19 参考文献のご案内

についてお話しています!
—————————————————————————————

■関連書籍のご案内
堀新・井上泰至『家康徹底解読』(文学通信)
家康の研究者による家康の最新研究が14の項目からまとめられています。今回紹介した方広寺鐘銘事件の詳細も紹介されています。やや難解ですが、家康研究の最前線を知りたい方はぜひ!
https://amzn.to/3IxUykv

笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ日本評伝選)
徳川家康没後400年を記念して出版された家康の評伝です。関ヶ原合戦や大坂の陣は新説やその反論等も述べられていて非常に読み応えがありました。
https://amzn.to/40SfZEt

■関連動画のご案内
https://youtu.be/Lh4A4ezu3K8

https://youtu.be/v_IFNxzm5sA

■日本史サロンのブログはこちら!
https://nihonshi-salon.com/

■今回の時代のキーワード
#どうする家康 #大河ドラマ #徳川家康 #大坂の陣 #方広寺鐘銘事件 #徳川秀忠
#松本潤 #大坂夏の陣 #大坂冬の陣 #豊臣秀頼 #茶々 #淀殿 #片桐且元 #大野治長

※使用している背景映像は河原撮影ならびにフリー画像・映像素材・ライセンス取得済みの素材を使用しています。
※日本史サロンは、Amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイトプログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。

35件のコメント

  1. その呪いのかかった鐘と方広寺を破却しなかったんですよね不思議だ、秀吉の墓まで壊したのに。
    最近の最新研究だと悪人も無能者も名誉回復されますね。

  2. 【補足】「牢人」は「浪人」の誤りでないか?という指摘がいくつかありますが、「浪人」の字は17世紀後半以降に用いられ、それまでは「牢人」という字が用いられています。紹介した参考文献でもすべて「牢人」と表記されているため、本動画でも牢人と表記しました。

    そして、たくさんのコメント本当にありがとうございます!少しバタバタしているため、お返事ができていませんが、すべて目を通させていただきます!!

  3. 秀忠が豊臣方に強硬だったのは、関ケ原での遅参を生涯の失点と思って、豊臣家に対して腹に一物が有ったからだという説が有りますね。
    もう一つは家康が亡くなった後、生き残った秀頼と対峙して抑え込む自信が持てなかった説。

  4. 家康は平清盛のニノマエを踏まぬようにしていたんじゃないですかね?秀頼を生かしておけば今後の火種になっていたハズです。

  5. 当時の謎のほうが、現在の謎よりも単純な図式に思えます。今の日本はある外国勢力の属国であるという説があり、信憑性があります。日本の政治家や官僚は自分で決断せずに、外国勢力の指示通りに実行しているとしか思えません。少なくとも、当時の関係者は自分の頭で考え決断・実行していました。今のほうが複雑怪奇です。

  6. 家康って結構評価を貶める目的で作られたような逸話が多いんだよね

    今川家を簡単に裏切った=家康はなんども氏真に敵討ちを名目にした救援要請を出したがことごとく拒絶されたためやむなく離反した

    うんこ漏らした=明言された歴史資料が存在せず昭和初期の創作である可能性大

    食い逃げして婆に追いつかれて金払わされた=家康は馬に乗っていたはずなので馬より早く走るババアは一体何もんだよ

    冬の陣で昌幸が入場していないかビビっていた=そもそも昌幸と直接戦ったことが無いのに家康がビビる理由が無い

    大阪城を落とす策は家康が秀吉に尋ねて教えてもらった=信雄が失言で改易されたのに慎重な家康が「天下取る為におたくの大阪城落としたいんですけど妙案無いすかね?」と秀吉に言質を取られかねない質問をするとはとても思えない

  7. やたら茶々が悪く言われますが、当時19歳くらいの秀頼の発言力は茶々とどれくらいの比率だったのでしょう。
    本当に茶々が決断したのか、あるいは秀頼の決断だったのか・・・そこが謎なんですよね。
    関が原で精神的にまいってしまうような茶々だから、大坂の陣では意外と秀頼の意向もあったのではと勝手に想像してます。
    大坂の陣での決断は茶々ではなく秀頼によるものだったのではと・・・。

  8. 加藤清正 肥後52万石
    福島正則 安芸49万石
    池田輝政 播磨52万石
    黒田長政 筑前52万石
    浅野幸長 紀伊38万石
    細川忠興 豊前40万石
    加藤嘉明 伊予松山20万石
    藤堂高虎 伊予今治20万石
    京極高次 若狭10万石
    京極高知 丹後12万石
    田中吉政 筑後32万石
    山内一豊 土佐20万石
    が豊臣方につけばな

  9. 千姫の嘆願を拒否したのは秀忠というのは有名ですがそれ以前から秀忠が強硬的な姿勢だったというのは初耳でした

  10. 孤立無援の豊臣側はいつかは手詰まりになるため、秀頼が出陣し家康を討ち取る戦果がなければ豊臣側は勝てなかったでしょう。真田幸村に秀頼の出陣で家康は打ち取れたと思います。

  11. 方広寺の鐘銘の国家安康ですが当時の常識に照らし合わせても非礼と言うようなことを仰っていらっしゃいますが、私はそうは思えません。徳川家康と言う人間はどこから見ても悪人としか思われません。関ヶ原の論功行賞でもそうでしたが主家をないがしろにして加増するようなことは普通は有り得ません。豊家恩顧の大名達の馬鹿さ加減にも腹は立ちますが、豊臣家にしたら徳川は一戦して滅ぼす必要があったのではないかと思っています。決して豊家を残すような考えなぞ持ち合わせてはいなかったと想像いたします。明治維新にすべて跳ね返ってきたのは自然の流れですね。

  12. 最新研究ありがとうございます。
    軍勢を集めてしまうと、トップに力がない限り抑えられなくなるというのは歴史の教訓ですね。
    しかも、皮肉にも最後の将軍・慶喜が大阪城で似たような状況に陥って、江戸へ逃げ帰っています。
    まあ、戦力を残して「不戦敗」したからこそ、江戸開城の交渉力があったのかもしれませんが。
    ともあれ、徳川家は存続したわけですから、秀頼から学んだと言えるのでしょうかね?

  13. 似ていますよね。
    好戦派と厭戦派に別れて、結局、無理が通って道理が引っ込む。
    太平洋戦争も陸軍好戦派が最後まで戦争の終結に反対したのでした。
    自分達の存在意義がなくなるから。
    歴史は繰り返す。
    それも愚かな部分だけ、ね。

  14. そもそも目的が違うのよな
    大坂方の目的は勝って徳川家を滅ぼす事
    それに対して牢人たちの目的は家康の首を取る事
    完全な勝利を目的とする豊臣と
    家康さえ倒せれば良いとする牢人たちなんだから
    統率がとれるはずがない

  15. 方広寺の鐘銘は、事前に下書きが徳川方に送られ、それを見てから進めて、彫り終わった後にクレームがついたという話があったかと思います。これも秀忠の意思でしょうか?

  16. しかしこうも通説が覆されるのは、学問としてどうなのかと思いますね。
    歴史は50年くらい新説発表は禁止して学問として成熟してもらいたいです。

  17. 秀頼が天下を取れなかった理由 、それは強すぎたから 。強すぎたから 敵ができる。 強き者には 隙ができる 。隙ができれば おごりが生まれる。

  18. 片桐且元の子孫です。
    取り上げてくれてありがとうございます。
    隠れキャラ的な要素ではありますがなかなか重要な役割をしていたんだなと感慨深く拝見しました。

  19. 天正地震さえなければ秀吉は家康を潰してたと思う。
    地震で居城が全壊した織田のバカ息子が妙に取次(外交)能力が高くて、家康を口説き落としてしまうという……

  20. 世の中や生活の安定が目的ではない傭兵やテロリストに該当する兵士を戦力にした時点ですべて終わっていた訳だ

  21. こういった新説から、結局、家康が天下人になったのは、その人望があってこそだということかもしれませんね。

  22. 通説に誤解があったにせよ臣下でもない豊臣家がやってることに家康が首突っ込むのは筋違いでしょ。軍事力で言えば徳川が上なの明白だし豊臣が牢人集めてようが警戒して防御固めればいいだけ。

  23. 今回の動画は徳川史観に寄った動画なので、豊臣家側に寄った動画も見たいな。

  24. 資料をもとに作られた良い動画ですね。
    時代劇に描かれている戦国物のドラマや小説は、江戸時代や明治、大正、昭和の時代に描かれた庶民向けの軍記物を参考に作られています。
    当時の日記や手紙などの第一次資料を元に戦国時代をたどれば、まったく違うものになりますよね。

  25. 自尊心は身を滅ぼす。
    豊臣+浅井(織田)vs
    徳川+秀忠
    但し信長も家康も敵を許す寛容さを、持ち合わせていました。

  26. 方広寺梵鐘の銘は豊臣家の落ち度、先ずこれを伺って安堵しました、何時も動画UPありがとうございます、何と言いましても徳川の世になって久しいのですから、家康が豊臣家を従属させようとしても何ら不思議ではありません、次に大阪城全ての堀の埋め立てに応じた件に関しては、豊臣方が完全に譲歩したと考えるべきなんでしょうね、
    最後にお話が前後しますが、片桐且元が駿府を訪れた際に徳川方から提示された3条件と、その後駿府に遣わされた大蔵卿の局に提示された条件が同じだったとの報道もあるそうですから、この件に関しましては続報を待ちたいと存じます。

  27. 「大坂城内堀を徳川が勝手に埋立説」はマユツバ(豊臣方が内堀云々についてはナアナアで済ませようとしていたところを徳川方が急ピッチで工事を完了させてしまっただけ)という論調をかなり前に聞いたことがあるけど、二ノ丸・三ノ丸の破却が同意されてたのならば内堀まで埋められても文句は言えませんわな(本丸の領域以外は更地にする、という趣旨の停戦協定にもなるわけで)。
    確かに、通説だと特に徳川家康が老獪な古狸みたいに描かれて悪役キャラみたいになってるけど、意外と豊臣家には配慮して気を遣ってるようなきらいもあるのよね。ただ、豊臣家滅亡に関しては「未必の故意」みたいなのはあったのではないか、と個人的には思ってるけど(∵後々のことを考慮すれば、徳川家にとってはかなりメリットがあるし)。

  28. 先日ブラタモリの中で江原ウバーレを紹介したた中で大阪の陣の落武者が住みついたと。耳を疑ったが、周辺には大阪城に入城した旧毛利家家臣の内藤氏の自刃の場所も存在して眉唾物とは一概に言えなくなってきた。輝元の幕府に対する怪しい行動は生存中も続いていて、毛利家が完全に徳川氏に従うのは家光の代のような気がする。輝元は大阪の陣では幕府にとってはやらかしに匹敵するほどのポカをしているが、なんとか不問で収まり、難を逃れるが、このように大阪の陣の落武者を領内に匿うなどかなり当時の毛利家の立ち位置と野心が見えてくる。一般に言われてきたが幕府が安定したのは綱吉になってからでそれまでは何があっても不思議ではない世上であったと思う今日この頃。

Leave A Reply