#Shorts#大東亜戦争#ミッドウェー海戦#日本軍の爆撃容赦無#アメリカ軍対空砲火対抗#南雲司令長官#アメリカ軍発見の為#索敵機を飛ばす!

ミッドウェー海戦における日本軍の作戦行動、そして南雲機動部隊の緊迫した意思決定の背景について。当時の状況を紐解くと、作戦計画の歪みや「敵(米空母)はいないはず」という前提が、一連の行動に大きく影響していることが分かります。それぞれの疑問について、当時の背景と理由を分かりやすく解説します。
1. イースタン島への猛烈な爆撃が行われた理由ミッドウェー環礁は、主に陸上飛行場がある「イースタン島」と、居住区や水上機基地がある「サンド島」の2つから構成されています。日本軍が特にイースタン島を激しく爆撃した最大の理由は、「島にいる米軍の航空戦力を完全に無力化し、その後の陸戦隊による上陸占領を成功させるため」です。
背景と狙い航空基地の破壊: イースタン島には米軍の滑走路があり、ここから飛び立つ爆撃機や戦闘機は、接近する日本艦隊にとって最大の脅威でした。そのため、上陸前に叩き潰す必要がありました。
二大目的の矛盾: 山本五十六連合艦隊司令長官の真の狙いは「誘い出した米空母を撃滅すること」でしたが、作戦計画上は「ミッドウェー島の攻略・占領」も同時に掲げられていました。第一航空艦隊(南雲機動部隊)にとっては、まず目の前にあるミッドウェー島を無力化することが、スケジュール通り作戦を進めるための必須任務だったのです。結果として、1942年6月5日未明、友永丈市大尉が率いる第1次攻撃隊(計108機)が猛烈な爆撃を加えましたが、米軍も事前にこれを察知して防空体制を整えていたため、決定的な打撃を与えるには至りませんでした。
2. 南雲司令長官が「半分」の航空機を残していた理由「戦闘機を半分残していたのか」という点について、正確には「戦闘機(ゼロ戦)ではなく、爆撃機や攻撃機(九九式艦爆・九七式艦攻)を、対艦兵装(魚雷や対艦爆弾)を装備した状態で、全搭載数の約半分(第2次攻撃隊として)艦内に待機させていた」というのが史実です。これには、連合艦隊司令部から出されていた厳格な「命令」が関係しています。
背景と理由:山本長官からの「陣中訓」作戦前、山本五十六長官から南雲部隊に対し、「もし作戦中に敵の空母が現れた場合に備え、常に攻撃力の半分(約100機)は対艦攻撃用に温存しておけ」という指示(機動部隊命令第1号)が出ていました。割り当て機種と装備主な任務第1次攻撃隊(約50%)艦爆・艦攻(陸上爆弾装備) + 護衛のゼロ戦ミッドウェー島(イースタン島など)の爆撃第2次攻撃隊(約50%)艦爆・艦攻(魚雷・対艦爆弾装備)米空母が出現した際の迎撃用(艦内待機)南雲長官はこの命令を忠実に守り、米空母への警戒として半数を残していました。しかし、第1次攻撃隊の友永大尉から「第2次攻撃の必要あり」との電文が届き、さらに島から発進した米軍機の執拗な反撃を受けたことで、「やはり島を完全に叩かなければ危険だ。敵空母も当分現れないだろう」と判断します。これが、運命の「魚雷から爆弾への兵装転換」の引き金となりました。
3. 索敵機を飛ばした理由と、その不運な背景「敵はいないはず」と考えながらも索敵機(偵察機)を飛ばしたのは、「軍隊における絶対的な鉄則(最低限の警戒)」だったからです。しかし、この索敵計画には深刻な油断と不運が重なっていました。なぜ飛ばしたのかどれだけ事前に「付近に敵空母はいない」という予測(甘い見通しの情報戦)があったとしても、大海原を進む空母部隊が一切の偵察をしないということはあり得ません。不意の遭遇戦を防ぐため、義務として索敵機を放ちました。
背景にある問題点と不運「一の字索敵」という手薄な計画: 当時の日本軍は、米軍がよく用いた扇状に細かく網を張る索敵ではなく、数本の線を引くような手薄な偵察(一の字索敵)を行いました。これは「どうせ敵はいないだろう、索敵に貴重な飛行機やパイロットを割くのはもったいない」という油断の表れでもありました。
筑摩(ちくま)と利根(とね)の遅れ: 運命を分けたのは、重巡洋艦「利根」から飛び立つはずの「利根4号機」でした。カタパルトの故障により、予定より30分も出発が遅れたのです。そして、この遅れた4号機が飛行したルートの先に、まさに米空母機動部隊が潜んでいました。もし計画通りに飛んでいれば、兵装転換(魚雷から爆弾へ変える前)の前に米空母を発見できていた可能性が極めて高く、歴史の大きなIF(もしも)として今なお語り継がれています。

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